おかえりなさい。『今日も元気でいてくれてありがとう』
この一言が、今日は一層胸に沁みます。
先の大戦で最も多くの特攻隊が散華された地、鹿児島県鹿屋(かのや)には
まだ10代、20代の先人がどのような心情で出撃の瞬間を迎えたのか、多くの遺書も残されています。
私自身が若い頃には、飛び立ってゆく隊員の心に思いを巡らせることが多かったですが、
今は男子三人の父親として『後に残された家族』の思いも想像するようになりました。
隊員の遺書を3つ転載致します。
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相花 信夫 少尉 宮城県出身 少年飛行兵14期 陸軍特攻第七十七振武隊
昭和20年5月4日沖縄周辺洋上にて特攻戦死 18歳
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
小川 清 海軍中尉 谷田部海軍航空隊
お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。
思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。
あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。
殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。
清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。
植村 眞久 海軍大尉
東京都出身 立教大学卒 25歳
昭和19年10月26日「第一神風特別攻撃隊大和隊」
スリガオ海峡付近にて戦死
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。
お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。
またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。
優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ
追伸、
素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。
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特攻という作戦は、賛美されるものであるわけがありません。
死を目の前にして明鏡止水の境地に達した方もいたでしょうし、
その一方でもっと生きたかった、特攻に行きたくないという思いがあった方もいて当然です。
しかし私は、特攻隊員の『自分が死ぬことよりも後に遺される方への思いやり、愛』にこそ注目すべきだと思っています。
『お父さん、お母さん、死にたくないよ』
と書いてしまったら、両親は一生その後悔を抱えて生きていかねばならなくなる。
でも、『立派に散っていきます』『僕は幸せです』『僕を誇りに思って下さい』
と書き残すことで、またいつの日か家族が前を向いて生きていくことができるようになるかもしれない。
死の直前にしてなお、残された人の未来を思う。この精神性に胸が熱くなります。
託された未来、今日はどう生きる?
いってらっしゃい。