おかえりなさい(^^♪今日も元気でいて下さってありがとう。
うれしいことがありました!
親探しの依頼を受け、25年間離ればなれになっていた親御さんが見つかりました…(´;ω;`)
実は知り合いの探偵さんにも相談していたのですが、彼もサジを投げたほどの最難度の案件、
奇跡のような出来事が重なってまさかの再会がかないそう…
詳細は申し上げられませんが、小説を超えてます(笑)
親子として生まれ、それでも様々な事情から離れて生きなくてはならなかった人々が再開する瞬間は、どんなドラマや映画よりも感動的です。
家族や大切な人と生きる時間がどれだけかけがえのないものか。
生きる勇気をたくさんもらいます。
やっぱり人生は素晴らしいな、と。
今朝もこんなエピソードをご紹介します。
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私の父は、78歳で他界しました。
気が弱く、酒の力を借りないと何も言えない男でした。
酒とギャンブルに溺れて、いつも母に悪態をついていました。
私は子供の頃からそんな父が大嫌いでした。
父は腕のいい板前でしたが、一か所に落ち着かず全国の旅館や料亭を転々としていました。
そんな暮らしを送っている時、叔父が、
「いつまでもそんな生活をしていたら、妻や子供が、かわいそうだ」
と言い、板前を辞めさせて地方公務員の職を見つけてくれました。
公務員といっても、仕事は養護施設孤児院の給食係でした。
板前職人の父にとっては屈辱だったのでしょう。
そのころから酒とギャンブルに溺れるようになったのです。
休日は朝から浴びるように酒を飲み、仕事の愚痴を溢してばかりいました。
私が小学生から社会人になる頃までそんな生活が続き、 案の定、肝臓を悪くして入退院を繰り返して78歳で他界しました。
私は、父の葬儀で涙を流しませんでした。
葬儀の終わり頃になって、30歳代ぐらいの男女12~13人が 泣きながら焼香をしているのに気づきました。
初めてお会いする人たちなので、父との関係が全く解りません。
どうしても気になって仕方なかったので、 出棺のときに、リーダーらしき青年に父との関係を聞きにいきました。
すると、青年はゆっくり語ってくれました。
彼らは父が勤めていた孤児院で育った仲間だったのです。
食べるものや着るものは、全国の人たちからいただいたので何の不自由もありませんでした。
一つだけ辛かったのは、学校にお弁当を持っていく時でした。
いつも友達から離れたところで食べました。
私たちのお弁当は、パンとミルクに決まっていたからです。
友達はみんな、母親の手づくり弁当を楽しそうに食べていました。
だから、私たちはお弁当の日が一番悲しい日でした。
でも、梶山のおじさんが来てくれてから、お弁当が変わったんです。
どこの母親にも負けないぐらい綺麗で美味しい手づくり弁当を持たせてくれました。
その日から遠足やお弁当の日が待ち遠しくなり、友達に自慢げに見せながら、梶山のおじさんのお弁当をいただきました。
あの時のお弁当の味を、20年経った今も忘れることはありません。
その話を聞いたとたん、 涙が溢れて止まらなくなりました。
あんなに大嫌いだった父親の姿がさっと消えて、 小さい頃に一緒に遊んでくれた、 笑っている父が走馬灯のように浮かんできました。
それまで知らなかった父を知った喜びと、 父を嫌って殆ど話さなかったことが無性に悔しく、 大粒の涙になって溢れ出しました。
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私の父は地方公務員で、県税の徴収をしていました。
税の徴収は口下手な父には過酷な仕事でしたが、小さなころの私にそんなことは到底わかるはずもなく、
私と性格はまるで真逆、無口で無表情、内向的で事務仕事や細かい作業が得意。
人の話はほとんど聞いておらず、休みの日は競馬やパチンコ、クラシック鑑賞と自分の好きなひたすら趣味に没頭している父は、小さい頃の私にとってはずっと不可解な存在でした。
お父さんは何を考えているんだろう…
もう少しお母さんにも優しくすればいいのに…
そう思ったことも一度や二度ではありません。
『俺には向かない仕事だ、もう無理だ』と54歳で公務員を辞めてしまった時も、
母は『これからの生活はどうするのか』と嘆いていて、
勝手だなあ…とも思っていました。
忘れもしない、私の30歳の誕生日。
当時私はスーパーマーケットの社員として店舗で働いていましたが、仕入れた缶詰を並べながらふと、
『お父さんが、あの内気な性格で、望まない仕事を続けてくれたことがどれだけつらかったか…』
『俺みたいな横着なやつだったら、【これにも何か意味がある!】などと言って何とか要領よくやっていただろう』
『でもお父さんの性格を考えたら、毎日毎日、本当にやめたい、つらい、逃げたい、もうダメだ…と思いながら耐え忍んでくれたんだろう』
『そんなことにも気づかず、上から目線で【もー、お母さんが辞めないでって言ってるのに辞めてしまって…】とか、【それは男としてどうなんだ?】などと考えていた…』
『俺は、なんて馬鹿野郎なんだ…!』
缶詰の棚の前で涙がポロポロこぼれてきて、
今日、帰って父に謝ろう、心の底からありがとうと伝えよう…
そう思って定時に帰途に就き、実家に寄って父の前で手をついて謝りました。
『ぼくは…何もわかっていなかった…お父さん…ごめんなさい…育ててくれてありがとう…ぼく、今幸せです…』
父からは何も言葉は発せず、ふと顔をあげると父が目頭を押さえています。
本当は事務仕事が得意なのに、税の滞納者のところに出かけて罵声を浴びせられながら何とか頭を下げて税を徴収してくる、
コミュニケーションが苦手な父にとって、どれほど苦痛な仕事に堪えながら育てて下さったか。
馬鹿野郎息子は、30歳になるまでそんなことにも気づきませんでした。
命があるうちに伝えられて良かった。
親やご先祖様は、根っこ。
勇気をもって根っこにつながることで、人生が好転し始めるクライアントさんを何百人とみてきました。
親と向き合うには勇気がいる、照れもある。
それを乗り越えてこそ、本当の勇気や愛を他の人に伝えてゆくことができる…
今はそうクライアントさんにお伝えさせていただいている私の、原点となった体験です。
今日も、勇気と愛をもっていきましょう。
幸せをお祈りしています。
いってらっしゃい。