あの日、あの時名古屋でも多くの人が体感した、
『目まい』のような揺れ。
当時私はスーパーマーケットの一社員で、100円均一のカゴ内の商品を整理している時でした。
『あれ…?俺今日体調悪いのかな…』
周りを見渡すと、高齢のお客様が座り込み、
天井から吊り下げられた商品広告が大きく揺れています。
『地震だ……!!何だ?今の揺れ?』
すぐに携帯で調べると、マグニチュード8.3というニュースもあれば、9.0と報じるサイトも。
『とんでもないことが起こってしまった…』
次々と飛び込んでくるニュースと目を疑うような映像に、
『また、行かなければ…』
高1の時も、阪神大震災で神戸に独りで行き、支援活動に従事した経験があります。
あの経験が少しは活きないだろうか、
自分にできることは何だろう…
会社には迷惑をかけましたが翌日すぐに辞表を出し、被災地へ向かいました。
山形経由で石巻に入ったのが3月14日未明。
神戸の焼け野原も壮絶な光景でしたが、
津波に全てを飲み込まれた街の姿は言葉では言い表せない惨状。
水も食料も全く現地では調達できないので、
5日間ほど支援活動をして一旦名古屋に帰り、また別の仲間と合流してもう一度東北に向かう、という生活。
それからも、時には多人数、少人数、そして単身で。
最初はガレキの撤去、その後は心を軽くするタッチケア、そしてカウンセリングをはじめ心のケアへ。
石巻、福島、岩沼、気仙沼等で5年半に渡り数十回の支援をさせて頂きました。
忘れられないのは、震災から一ヶ月後の石巻での出来事です。
3〜4人のチームに分かれ、個人宅の玄関先に堆積したヘドロを撤去する作業で、
『少し休憩を取ろう』
仲間たちと近くの公園で昼食を摂ることにしました。
コンビニもスーパーも破壊され、ライフラインが復旧していないので、全員10〜30キロの水を持参。
食料も、缶詰やカロリーメイト、パンなど。
厚手の合羽を着ていますが、まだ四月の石巻は寒く、汗が冷えます。
震えながら食事をしていると、通りすがりの女性が
『身体、冷えるんじゃない?お湯持ってこようか?カップラーメンとかある?』
『お茶も持ってこようか。ちょっと待っててね』
そしてお湯、温かいお茶と一緒に松前漬けを持ってきて下さいました。
『汗かいたでしょ。塩分とってね』
『名古屋から来てくれたの?大変だったね。ありがとう、ありがとうね…』
『…………』
みんなで泣きながら松前漬けを頂きました。
自分たちが一番大変な時に、満足な食事も配られていないのに、私たちを思いやって下さる…
人は何と温かいんだ、と。
あの味は生涯忘れることはありません。
あれから11年、私たち日本人は本来の思いやりや絆を取り戻せたでしょうか。
東日本大震災で世界が驚愕した、東北の方たちが見せて下さった人としての模範のような在り方。
強く耐え、泣き言を言わず、譲り合い、助け合う。
支援に向かった私たちが、逆にいつも勇気を頂いていました。
もちろん現地では様々なことも起こりましたが、
避難所の体育館で、仮設住宅で、強く生きる人々の姿に胸を打たれるばかりでした。
私の腕時計は、【3月11日 2:46】で止めています。
『死んだ孫の形見を貰って欲しい』と、大切な方に頂いた宝物です。
いつも東北と共に。
これからも一緒に。
亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
大切な皆様が、どうか今日も素晴らしい一日となられますように。